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自ら営業に奔走する日々

自ら営業に奔走する日々

バブルの崩壊はあらゆる企業の経営を直撃、私の会社もアメリカでのんびりしていたツケでしょうか、
仕事が激減してしまいました。とはいえ、私は持ち前のノーテンキさを発揮、
「まあ、そのうちなんとかなるだろう」とのんびり構えていました。

しかし、会社にはすでに社員は3名。二度目の渡米で私が留守の間、チーフとして工房を取り仕切ってくれた人
は独立しており、アルバイトの中から、私と一緒に頑張りたい、という意欲のある人を正社員にしていました。

1ヶ月すぎても仕事が何もないと「どうしよう」と思いはじめます。そして、2ヶ月目には
「このままではまずいな」と不安になり、3ヶ月目に「いよいよやばい!」と本気で焦り出しました。
思い返すと、この無計画さはぞっとします。 こんな経営者は、社長失格ですよね。

やっとここにきて私も「営業しなきゃ!」と行動をはじめました。真剣に作品パンフレットを作成し、
いままでお仕事をいただいていた制作会社やプロダクションと、
さまざまな会社を探してアプローチ。まったく営業のノウハウも知らないまま、手探り状態でした。

急に営業したからといって、すぐに仕事に繋がるほど世の中は甘くはないと自覚していましたが、
何もしないでいれば、わずかな貯えはすぐに底をついてしまいます。
「やるしかない!」の一念で、不馴れな営業活動に奮闘しました。

思えば、私が日本で仕事を始めたころは、特殊メイクは珍しい仕事で、しかもアメリカ帰りということで
「華麗なる転職」などと物珍しがられることがありました。
日本で3年間出版社に勤めていたので、転職には違いありませんが、新しいことをゼロから始めたという意識が強く、若干ズレて取り上げられ方が不本意だったのを思い出します。

しかし、後々になると、そのような取り上げられ方それ自体が「営業」になっていたのだとわかります。
TV番組の『徹子の部屋』に出演し、そのご縁で黒柳徹子さんの舞台のメイクを担当するなど、
メディアに取り上げられたことで売り込みをしなくても仕事が入って来ていました。
これはすごくありがたいことだったのです。

しかし、バブル崩壊によりそのような状況がなくなりました。営業先で「うちも大変なんだよね」とか
「低予算で制作しなければならないから・・・」といった言葉を聞かされ、暗い気分で帰ってきた
ということも一度や二度ではありません。

さらに、渡米中に、任せていたチーフがいくつか仕事を断っていたようで、営業に行った先で
「あの時断られたしね」と言われたこともありました。
「私は知らなかったことです」と言って事態が好転するはずもなく、引き下がるしかありませんでした。

特殊メイクは映像の中で「必要とは限らない分野」にされる面もあります。
撮影、照明、美術、記録、衣装、編集、ヘアメイクなどは、どうしても必要だけど、特殊メイクはカットできる分野と位置づけられやすいのです。

低予算でも対応できるよう、材料の代替品を工夫するなど費用を抑える方法も考えていたのですが「特殊メイクはお金がかかるから使わない」と
最初から決められてしまうと、相談すらされなくなってしまいます。

この時期はとにかく「なんでもやります!」という姿勢を明確にし、小さな仕事にも全力で取り組むことを
心がけました。それが特殊メイクの価値を知ってもらうためにも必要なことだと思っていました。

低予算時代は、その後もずっと続きますが、めげずに営業を続けたかいあってか、また特殊メイクの技術の
必要性が認識されてきたためか、私たちのもとには次第に仕事が入るようになり、
少しずつ活気を取り戻していきました。