HISTORY
米国でプロの道へ
- EPISODE 2
- 1982 - 1986
踏み出した第一歩
『狼男アメリカン』を観た後、特殊メイクの基礎を学ぼうと、さっそく学校探しを開始。
ハリウッドにあるJoe Blasco make-up Centerへ入学しました。
日常生活の英語には困らなくなってはいたけれど、専門用語いっぱいの授業を理解するのは大変でした。
半年足らずの短期集中で、とくに座学はついていくのが精いっぱい。なんとか修了しましたが、仕事に就ける自信は全くありませんでした。
でも、学校へ行くと決めた時、夫から「中途半端な気持ちでやるな」と言われていましたし、自分でもこのまま後に引きたくはありません。正直にいうと、1ドル200円の時代、
授業料が高かったことも動機付けになりました。授業料を取り戻そうと(?)、猛然と仕事探しを始めたのです。
当時も今も映画の世界で働くためには、自分自身の作品集(ポートフォリオ)を常に持ち歩き、売り込みをするのが当たり前。夫は映画会社勤務ではありましたが、
特殊メイクの世界とのつながりはありませんし、頼る気もありませんでした。負けない自信があったのは「熱意」だけ。方々のスタジオや個人工房を訪ね歩きました。
なんとか、あるスタジオで無給の実習生のような扱いで、仕事場を提供してもらえることになりました。おそらく何の期待もされていなかったと思いますが、
はりきって仕事に打ち込むうち、「結構使えるやつだ」と思ったのでしょうか、正式に採用されました。同業の仲間もでき、仕事について情報交換できるようにもなりました。
それからは『メタルストーム』『デューン砂の惑星』『ゴーストバスターズ』『キャプテンEO』など次々とプロジェクトに参加。夢中で働き、特殊メイクに近い仕事なら、マスク作り、
ボディスーツ作り、どんな仕事でも、面白がって取り組んでいました。
リック・ベイカーとの仕事
ここで、私の生涯の師であるリック・ベイカー氏のお話をします。彼は、私の運命を変えた映画、『狼男アメリカン』の変身シーンをクリエイトした特殊メイクの第一人者。
間近で働いてみたい、とずっと目標にしていました。
リックに最初にお会いしたのは、仕事仲間に誘われたパーティ。その時に作品集を見てもらって、短いアドバイスをもらったことがあったのですが、『ゴーストバスターズ』の
マシュマロマン製作スタッフとして働いていた時、リックが見学に来ると聞きました。二度目のチャンス到来です。名前も憶えていてくれたので、仕事ぶりを猛アピールし、
次回は是非一緒に仕事させてほしいと伝えました。
その時の反応が良かったと感じたので、マシュマロマンが終わったら、もう一度訪ねようと思っていたのですが、ここで幸せな誤算が。妊娠していることがわかったのです。
『ゴーストバスターズ』撮影終了後、しばらく仕事を休みにして出産にそなえる事にしました。
仕事から離れることに不安もありましたが、流産の経験もあるので、とにかく無事に出産することを最優先しました。当時流行っていた「ラマーズ法」の教室で呼吸法も学び、
無事に長女を出産。結婚7年目、ロサンゼルスがオリンピックに沸いた年のことです。
出産後7ヶ月くらいは、お仕事はお休みして子育てに専念しました。リズム体操や水泳教室などに親子で参加し、楽しく過ごしました。そろそろ仕事を再開したいと思い始めた、
時にタイミングよく、仕事仲間のビルから電話があり、それが『キャプテンEO』のお仕事の依頼でした。
『キャプテンEO』では、ファズボールという可愛いクリーチャーの毛を植える仕事からスタートし、その仕事が終わる前、リック氏の工房へ再々度チャレンジ。「三度目の正直」で、
やっと出入りを許可され、映画「ラットボーイ」を手伝うことになりました。リックの工房で働きたいと強く望んでいた私は念願かなって、天にも昇るような気持ちでした。
リックの先生でもある、大御所のメイクアップアーティスト、ディック・ スミス氏がプロの為の通信教育を行っていると聞き受講したのもこのころ。娘をベビーシッターに預け、
スケジュール調整に四苦八苦しながら、仕事を続けることができました。
そのように、仕事も軌道に乗ってきた時、またも大きな変化があります。夫の転勤、日本への帰国が決まったのです。いつかは来ると思っていましたが、悩みました。
このままアメリカで仕事を続けたい気持ちもありましたが、幼い娘のことを考え、一緒に帰国することを決めました。「アメリカでできたのだから、日本でもどうにかなるだろう」と、
約7年のアメリカ生活にさよならを告げました。