HISTORY
日本での再出発
- EPISODE 3
- 1986 - 1993
工房づくりに奮闘
帰国後、右も左も分からない日本の映像業界での仕事探しが始まりました。
日本では、特殊メイクのアーティストは私のほかに男性が一人だけ。
業界として確立しているとはいいがたい状況でした。
映画会社で働いていた夫は、人の紹介だけは頼めましたが、交渉事などは頼らずにやっていくしかありません。
私は、作品作りをしながら営業しようと考えました。そのためには仕事場(作業場)が必要です。
アメリカだと、車2台が駐車できるような自宅ガレージを作業場にしている人、倉庫を借りて仕事場にする人が多いのですが、東京の住環境ではとても望めません。
子育てを考えると、自宅と仕事場が一緒の方が便利とも思いましたが、石膏や粘土などを使うし、
埃っぽい材料もあり、別々のほうがよいという結論に達しました。
そこで相談したのが、調布にある日活撮影所。撮影所の中に作業場を借りたいとお願いし、
許可をいただくことができました。
アメリカにいたときから、日本で仕事をする準備として材料を買い込んでいたので、その材料を整理したり、
作業場の設備を整えたりしているとき、グッドタイミングに仕事が
舞い込んできました。依頼を受けたのは映画『親鸞・ 白い道』での「生首」の特殊造形の製作。
これが日本での初仕事となりました。
材料や設備のほか、考えなくてはならないのがスタッフです。製作から事務、交渉まで一人で行っていたため
手が足りず、人材が必要となったのですが、まだ特殊メイクの学校もなく、かといって未経験者を
教える余裕もありません。せめて石膏の型を作ったことのある人と思い、美大へスタッフ募集の広告を出し、
製作を手伝ってもらいました。
仕事に育児に多忙な毎日
初仕事の後、4~5年間の日本はバブル経済の真っ只中。映像業界も予算が豊富にありました。また、アメリカの新しい技術を取り入れた作品を作ろうという流れもあり、
私も国内外、いろいろな人たちと出会い、面白い仕事にたくさん参加させていただきました。
中でも、アメリカからSFXメイクスタッフを呼んで、日本人スタッフと合同で製作した映画『スウィートホーム』は、私にとっても、特殊メイクを志す若者達にとっても貴重な経験となり、
その後、一緒に仕事をしたスタッフが独立してアメリカへ進出する足がかりにもなりました。
映画や企業CMも「バブリー」な雰囲気にあふれていて、仕事が次々に舞い込みます。感謝感激の日々でしたが、その反面「こんなことがいつまでも続くとは思えない」という漠然とした
不安も感じていました。
また個人的には、育児と仕事の両立にとにかく忙しかった記憶があります。個人事業としてはじめた工房は、2年後に株式会社になり、会社を切り盛りしつつ、撮影現場、
保育園と自宅を走り回っていた感じです。「若さ」と「情熱」があったからこそ乗り切れたのだと思います。
携帯電話のない時代ですから、会社を出ると今では考えられないくらい連絡が取り辛い環境です。当時、公立保育園のお迎えは6時まで。しかし5時半に会社を出ようとすると、
仕事の連絡が来ることもあります。お迎えが遅れると保育師さんにご迷惑をかけるし、重要なクライアントからの連絡を無視することもできないし、
板挟みで泣きたくなることもありました。細かい気配りが足りず、失礼があった方々、娘には「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいです。
そんな折、またもや夫が転勤、再度渡米することになります。あらゆる面で前回の渡米時とは状況が異なります。自分のやりかけている仕事はどうするのか、会社の運営は誰がするのか、
考えなければいけないことはいろいろありましたが、やはり親子3人で渡米することに決めました。
この時の気持ちを思い出すと、「家族は一緒がいいだろう」という気持ちももちろんですが、正直な話、ちょっと仕事に疲れていて、気分転換したいという気持ちもありました。
会社はスタッフに維持してもらいながら、仕事は日本とアメリカを行ったり来たりしながらやっていけばなんとかなる。できなければその時に考えればよいという気持ち だったと思います。
2度目の渡米は、結果的に2年間と言う短い期間で終わりました。その間は、基本的にはあまり仕事をせず、小学生になった娘とできるだけ一緒に過ごそうと心掛けていました。
学校の行事やパーティー、娘の友だち付き合いに付き添ったり、100%希望通りとはいかなかったけれど、それなりにアメリカ生活をエンジョイし、リフレッシュして帰国となりました。
そして、帰国後に待っていたのが、バブル崩壊でした。