バブル崩壊 | 株式会社メイクアップディメンションズ
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第四章 バブル崩壊(1993年~1999年)
自ら営業に奔走する日々
「仕事が激減!」の第四章 バブル崩壊(1993年~1999年)をどうやって切り抜けたのか! どちらかというと、ノーテンキな私は「まあ、そのうちなんとかなるだろう」と思ってのんびり構えていました。さすがに1ヶ月すぎても何もないと「どうしよ う~」と思いはじめ、2ヶ月目には「このままではまずいぞ」と不安になり、3ヶ月目には、「やばい!」と本気で焦りました。今思い返しても「よく乗り切っ たなあ」と呆れるやらぞっとするやら。こんな無計画な経営者は普通なら即刻首!社長失格ですよね。その時すでに社員は3名でした (写真右)。

MUDメイクルームにて

二度めの渡米から帰国後、私の留守の間、チーフとして工房を取り仕切ってくれた人は独立することになり、アルバイトのうち、今後私と一緒に頑張ろうという人を正社員にしていたのです。その矢先にこの始末。やはりノーテンキと言われても仕方ない有り様でした。
そんな訳で、ついに私も「営業しなきゃ!」と行動開始。真剣に作品パンフレットを作成し、いままでお仕事をいただいていた制作会社や、プロダクションさらに新しい会社を探してアプローチしていきました。とはいえ、まったく営業のノウハウも知らないまま、手探り 状態でした。
それまでは、幸か不幸か営業をしなくても仕事が順調に入って来て、その忙しさに追われていればオッケーだった訳です。というか、始めた頃はまだ珍しい仕事でもあり、アメリカ帰りということで「華麗なる転職」などといって、わりともてはやされていたこともあっ て、それが十分「営業」になっていたと思われます。私としては日本で3年間出版社に勤めていたし、夫の渡米に同行してから始めた仕事ですから転職には変わりありませんが、そのように取り上げられるのは有り難いようでもあり、ちょっと不本意な気分だったと思います。
それはさておき、ほんとうに勢いというのはすごいです。雑誌やテレビ番組のゲスト出演などが多く、「徹子の部屋」にも出演させていただき、そのご縁で黒柳さんの舞台の特殊メイクもいろいろやらせていただきました。今振り返ってみても、やはりルンルンの時代でした。
2年間にわたる日本不在のツケ
さて、少し話が前後してしまったので、話をバブル崩壊後の第四章 バブル崩壊(1993年~1999年)に戻します。 「急に営業したからといって、すぐに仕事に繋がるほど世の中は甘くはないぞ。」くらいのことは私も自覚していましたが、それでも何もしないでどんどん会社の貯え(それもわずかな)がなくなるのは困るし、「どうにかするしかない!」の一念で不馴れな営業活動を開始したのでした。
当たり前かもしれませんが、バブル崩壊の余波はそういう相手の会社にも影響していて、営業に行ったつもり が、「うちも大変なんだよね」とか「低予算で制作しなければならない大変さ」を聞かされたりして、「なんだかなあ」と暗い気分になったものです。残念ながら経済低迷のこの時期、特殊メイクは映像の中で必ずしも必要とは限らない分野にされていました。撮影、照明、美術、記録、衣装、編集、ヘアメイク、などは必要だけれど、特殊メイクはできるだけカットしたい分野?と位置づけされていたように思います。確かにバブル時代は予算も豊かで、美術とメイクのどちらにも手におえないような仕事が特殊メイクとして成り立っていました。ところが、低予算作品が多くなった頃は「お金がかかるから特殊メイクは使わない」と決めつけられてしまい、低予算なりの対処方法を考えていても、相談に乗ることすらできない時もありました。「天国と地獄」とまでは言わないけれど、扱いがひど いと思ったのも事実です。
さらに二度目の渡米中に、任せていたチーフがいくつか仕事を断っていたようで、営業に行った先で「あの時断られたしね」と言われたこともありました。「私は知らなかったことです」と言ったところで事態が好転するはずもなく、返す言葉もないまま退却するしかあり ませんでした。映像作りの方向転換をする会社もあり、「バブル崩壊」は案外根深く、長く続きそうなかんじでした。それでも、メゲずに「営業」を続けた成果だったと思いますが、またボチボチと仕事が入りはじめて、少しずつ活気を取り戻していきました。その後もずっと低予算時代は続きますが、それなりに特殊メ イクの技術は定着し、徐々に広がっていったのです。