特殊メイクとの出会い | 株式会社メイクアップディメンションズ
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特殊メイクとの出会い(1979年~1986年 前編)
アメリカでしかできない新しい何かを
特殊メイクの仕事を始めるきっかけとなった、アメリカ生活の始まりはこんなかんじでした。
結婚して3年目のある日、夫から「転勤だよ。しかもアメリカで長期滞在になりそう。」
と言われ、我が耳を疑いました。というのも、当時夫が勤めていた会社は、国内転勤はあっても、海外に支社もなかったし、その可能性やうわさもまったく聞いたことがなかったので、自分の人生に海外生活は無縁と思っていたからでした。
出版社に勤めていた私の方は(1年くらいなら休職にできるけれど、長期はとても無理)、一緒に行くなら仕事は辞めるしかないという状況でした。希望して手に入れた仕事だったのでとても残念でしたが、アメリカでの長期生活も未知の魅力に溢れていたし、それなら一緒に行って、まったく漠然とでしたが、アメリカでしかできない何か新しい仕事をしようと考えました。
この頃から、良く言えば「前向き」、悪く言えば「ノーテンキ」だったかも知れません(写真右)。

出版社にて

初めての海外生活であり、まだ海外旅行の経験すらなかった私は、準備をするに しても、何が必要か調べることから始めなければなりませんでした。さらに出発まで の半年くらいの間に、初めての妊娠、流産という悲しい出来事まであり、心身ともに疲れ果てての出発となりました。出発の日、成田空港から飛び立ったパンナム機(Pan American 航空という今はもうない航空会社)の窓から遠ざかる日本は、小さな箱庭のようでとても美しく、ちょっと感傷的になりました。
(とうとう旅立ってしまった、もうしばらくは日本へ帰れないなあ)と覚悟を決めながら、見えなくなるまで眺めていたのを思い出します。
運命の出会いは何気ない休日に
目的地ロサンゼルスは真夏の太陽がギラギラして、パームツリーが美しい街でした。まだあまり英語がしゃべれなかった私は、なにはともあれ、アメリカ生活に慣れる事、言葉に慣れる事を中心に生活を始めました。初めての専業主婦。たっぷりある時間を有効に使いたくて、平日は年会費20ドルくらいで参加できる語学サークルを見つけて通いました。リタイヤした元教師が先生になり、テキストもなく、その日の先生が決めたテーマにそって会話をするというかんじでした。私はスイス人の女の子と友達になり、遊びながら英会話も上達。という一石二鳥を実行していました。まあ、言うほどに成果はあがりませんでしたが、友達はできて楽しく遊んで過ごしました。やがて、宝石鑑定士やジュエリーデザイナーもいいかな。と候補にあがりましたが、「アメリカで新しく始めたいこと」は、なかなか決まらないまま日は過ぎて行きました。
アメリカは映画料金もゴルフプレー費も日本よりうんと安かったし、お金のない若い夫婦にも気軽に楽しめる娯楽だったこともあり、休日はもっぱら映画かゴルフの日々でした。
ところが、ある日その娯楽の中から運命の出会いが!
なんと「狼男アメリカン」という映画を見て、人間が狼に変身していくそのメイクに魅せられてしまったのです。「どうすればこんなシーンが作れるのだろう」という興味から「やってみよう」に変わるのに、そう時間はかからなかった。やはり、基本を学ぶには学校へ行った方がいいと思い、学校探しを始めてハリウッドにあるJoe Blasco make-up Centerへ入学。言葉にも慣れてきてなんとかなると思っていましたが、そう甘いものではなかった。専門用語もいっぱい、授業に就いて行くのが精いっぱいで、半年足らずの短期集中ではまったく仕事に就ける自信もなかった。が、あきらめる訳にもいかなかった。なんといっても授業料が高かったし(当時1ドル 200円位だったから余計)、学校へ行くと決めた時には、夫から「中途半端な気持ちでやるな」と言われていたし、もう後へは引けない。少なくとも、授業料くらいは取り戻すべく、切羽詰まってすごいパワー?で仕事探しを始めました。
当時も今も作品集(ポートフォリオ)を作り、自分で売り込み活動をするのが当たり前の世界。夫は映画会社勤務だったけれど、特殊メイクの世界はまったく無関係。頼りにはできず、まあ頼らずやってみたかったし。熱意だけは誰にも負けないぞ、とあちこちのスタジオや個人の工房を訪ね、あるスタジオで無給の実習生みたいにお手伝いをさせてもらう。なんの期待もされていなかったと思うが、何事も経験と頑張っていたら、「結構使えるやつだ」と思ったか、正式に採用されました。それからは、同じような仲間から情報をもらい、「メタルストーム」「砂の惑星・デューン」「ゴーストバスターズ」「キャプテンEO」など次々とプロジェクトに参加。もう、夢中で仕事に励んだ頃でした(写真右)。

「砂の惑星・デューン」制作現場